銀河系がどんな形をしているかに関する研究の歴史
ウィリアム・ハーシェル(1738 - 1822)が根本的に興味があったのは天界(今で言う天の川銀河、当時はそれが宇宙全体と考えられていた)の三次元構造でした。当時の天界に対する認識は、天の川銀河のような個別の銀河の概念はなく、宇宙=天の川銀河(正確にはちょっと違いますが、それ以外に表現のしようがない)のようなものでした。つまり、宇宙の形はどのようであるかを探ろうとしたのです。ハーシェルは1785年に「星計測法」という方法を考え出し、星の密度が高い方向ほど宇宙は遠方まで広がっていると考えました。自身が作成した48センチ反射望遠鏡を使い、次の三つの仮説に基づいて観測を行いました。
1.48センチ反射望遠鏡は宇宙の果てまで見通している
2.星の明るさはどの星も一様である
3.星の光を遮るものはない
結論から先に言えば、ハーシェルの三つの仮説はすべて間違っていたので、できあがった宇宙像も間違ったものになりました。とりあえずハーシェルは恒星の中で最も明るいシリウスまでの距離を1として675個の恒星の方向と相対距離の観測を行い、星の位置を三次元的にプロットして宇宙の姿を描き出しました(次図)。この図を見るときに注意しなければならないことは、この図は現在知られている銀河系の断面図によくにていますが、ハーシェルは決してそれを予言したわけではないという点です。そもそもの仮説が三つとも間違っていますので、誤った仮説から正しく見える結果が導き出されたとしても、それは偶然の一致であると考えるのが科学的考察の基本です。

ハーシェルは次々に口径を大きくした反射望遠鏡を作成しましたが、たとえばオリオン星雲のようなものを星にまで分割することができないことに落胆し、48センチ反射望遠鏡で宇宙の果てまで見通せるという仮説1.が間違いであると気づき、自説を取り下げることになります。そもそもが宇宙の果ての星まで見通せないという問題の他に、当時は星団と惑星状星雲(ちりやガスの集まり)の区別が付いておらず、惑星状星雲を一個一個の星に分解できないこと(今の私たちはそれは星ではないと知っています)で限界を感じたのではないかと時代背景から推測します。
そこでハーシェルは1817年に新しい観測手法を考えつきます。「等光度法」というこの第二の方法は、ややこしいので詳細は省略しますが、等光度法で天空のあらゆる方角を観測し、銀河面に対して直角になる方向(銀河の厚さの方向)については、見通すことに成功したと考えましたが、銀河面については望遠鏡の性能が足りないことを認め、その結果から銀河面の方向には望遠鏡の能力を超えた広い範囲にわたって宇宙は広がっていると考え「深遠な銀河系」と呼ばれる宇宙を描き出しました(次図)。ハーシェルは自慢の122センチ反射望遠鏡をすでに持て余していた感があり、年齢も80歳を超えていましたので、ハーシェルによる銀河の観測はここまでとなります。次図の中央の○は人間の肉眼で見える範囲、上下の横線は望遠鏡で観測した宇宙の果てで、左右方向はどうなっているかわからないとしています(1818年)。

次のターニングポイントは、ウィリアム・パーソンズ(1800 - 1867)による「巨大海獣」と呼ばれる、口径183センチ反射望遠鏡の完成(1845年)によるアンドロメダ銀河の観測です。ハーシェルは星雲が星に分解できるのかどうかで悩みましたが、それはそのはずで、当時星雲とひとまとめにされていたものには星の集まりとガスやちりの集まりが混在していました。パーソンズらは、オリオン星雲とアンドロメダ星雲を観測対象として星への分解が可能であるかどうかの検討を行いました。現在の観測では前者はちりやガスの集合体です。ただし、内部では多数の星の誕生があります。パーソンズらはM51、M99など星に分解できる渦巻き星雲を14個発見しました。しかし、1846年の時点でパーソンズはオリオン星雲については星に分解できるかどうか悩んでいるとしています。オリオン星雲は前述の通り、生まれたばかりの星とガス・チリの集合体なので、今で見ればパーソンズはかなり正確な考察をしていたことになります。ちなみにガス星雲の確認は1864年になってのことです(ウィリアム・ハギンス)。
同時代、星までの距離を測定するための「恒星視差」の観測もハーシェルを含め多くの天文学者によって行われていました。恒星視差は地球が太陽を公転することによって位置を変えるため、地球の位置によって恒星の見える角度が変わるはずという三角測量です。
フリードリッヒ・フォン・シュトルーベ(1793-1864)は1847年に『恒星天文学エチュード』という本を著したドイツ系ロシア人の天文学者ですが、この時代には35個の恒星について恒星視差が測定されていました。当時、恒星はどれも太陽に似ていると考えられていましたので、ハーシェルの等光度法に恒星視差を組み込み、1等星までの平均距離を約15.8光年と推定し、途中の計算は省略しますが、6等星までの距離は1402光年、9等星までの距離は5958光年と推定しました。これに基づいて恒星を観測し次のような銀河の構造を推定しています。
・銀河系は扁平な構造をしており、中心の銀河面から両側にほぼ対象的に層状構造を成す
・星の空間密度は銀河面からの距離と共に減少する
・銀河系における太陽の位置は銀河面から少し外れている
・星団や星雲は銀河面に近いところほど多く存在し、分布は不規則である
・恒星間空間には光を吸収する物質が存在する
これを図にしたものが次です。

その後も、ヤコブス・コルネリウス・カプタイン(1851 - 1922)、ユーゴー・ハンス・フィン・ゼーリガー(1849 - 1924)などによって銀河系の形の考察は進められましたが、それらは主に星の分布による輪郭線の推定に関するもので、いわゆる腕状の銀河内部構造の発見に至るものではありませんでした。
次に大きな転換点となるのが、コルネリス・イーストン(1864 - 1929)の推論です。イーストンはパリの新聞記者でアマチュア天文学者でした。イーストンは星が全天に均一にではなく、ムラになって見えることが銀河系の構造と何らかの関係があると考えていました。イーストンは「ボン星表」という恒星のリストに従って観測を行い、1900年にアマチュアながら、銀河の構造について「銀河系は円環構造を持ち、太陽は中心より外れたところにある」という新たな説を天文雑誌に投稿しました。さらに、自らの新説で描き出した銀河の構造が、地球から観測される他の渦状銀河に似ていることから、銀河系は渦状構造を持つと述べました。また、銀河系の中心ははくちょう座の方向にある、と現在の観測と一致する結果を導き出しています。私(中西)が調べた範囲では、銀河系の渦巻き構造に言及したのはこれが初めてのことです。前述のゼーリガーがイーストンの説に強く反論している記録がありますので、両者が同時代の天文学者であることを考えるとこれは間違いないでしょう。次の図はイーストンの銀河構造です。作図上地球が中心に描かれていますが、銀河系の中心はその左側にあるとし、円周上に星座が記載されていますが、銀河中心方向は「シグナス」=はくちょう座とされています。

この頃並行して、他の天文学者らによりアンドロメダ銀河のような天体が、銀河系内の天体(原始太陽系説)なのか、それとも銀河系の外にあり、銀河系は島宇宙なのかという論争が繰り広げられています。
この議論については、エドウィン・ハッブル(1889 - 1953) がアンドロメダ銀河の赤方偏移を測定し、ドップラー効果から銀河系の外にある銀河であることを明らかにしていますが、その前段階としてベストー・メルビン・スライファー(1875 - 1969)の観測があります。スライファーは元々惑星の観測をしていた天文学者で、パーシヴァル・ローウェル(1855 - 1916)の提唱する火星運河説に陶酔し、火星には文明人がいることを主張した若干イタイ人です。1909年から星雲の分光観測を開始しました。これはアンドロメダ銀河が原始太陽系のようなものであれば光のスペクトルが太陽に似ているのではないかという当時の上司からの指摘でした。上司というのはパーシヴァル・ローウェルなのですが・・・。スペクトルの撮影は困難を極めましたが、プリズムやカメラなどをいろいろ工夫し、1913年にアンドロメダ星雲が秒速300キロメートルで地球に近づいているという結論を出しました。スライファーは、果たしてこれは本当にドップラー効果なのだろうか、と当初は自身の観測結果を信じられなかったようですが、1915年までに15個の渦巻き星雲の視線速度を測定し、そのうち10個は太陽から遠ざかっていることを明らかにしました。途中、1914年にアメリカ天文学会で15個の渦状星雲の視線速度の観測を発表しています。そこでは、多くの渦状星雲は太陽から遠ざかっていると結論づけています。1917年には25個の星雲についてスペクトルの測定に成功し、同様の結果を支持するデータを増やしました。
ところで、1914年の学会には若きエドウィン・ハッブルが参加していました。まだ25歳頃です。ちなみにスライファーは1914年に渦状銀河が自転していることも報告しています。スライファーは現在の膨張宇宙論の一歩手前まで近づいていたのですが、1939年で突然天文学者をやめてしまい、活動家になってしまいました。そこで登場するのがハッブルです。
1923年、ハッブルはアンドロメダ銀河の星の薄い部分で新星を探し、それらしい星を3つ発見しましたがそれらは新星ではなく変光星でした。1924年にはそれらがケフェウス型変光星であることを確認し、すでに知られていた変光周期と星の真の明るさの関係から計算すると、アンドロメダ星雲までの距離は825,000光年と算出され、アンドロメダ星雲は銀河系の外にある天体だという結論を得ました。同年さらにM31, M33, NGC6822にもケフェウス型変光星を発見し、いずれも銀河系外の天体であると結論づけています。このあと宇宙の膨張論につながるわけですが、それは銀河系の形とは関係がない話なので話が拡散するのを避けるためにここでは触れないでおきます。
ハッブルは1926年に『銀河系外星雲』という論文を発表し、銀河系外星雲の進化について検討を加えています。約400個の星雲を形で分類し、見かけの等級と星雲の角直径の相関が得られたことから、ハッブル系列と呼ばれる銀河進化を提案しました(次図)。現在では、銀河は、銀河同士の衝突などで劇的に姿を変えるために、このような単純な変形はしないと考えられています。

その後、アンドロメダ星雲を星に分解して観測する試みが成されます。その代表者はドイツの天文学者ウォルター・バーデ(1893 - 1960)です。1943年頃の観測で21等級の暗さの星まで撮影に成功し、円盤周辺の青い星や、円盤中央(バルジ)付近の赤い星の観測に成功しました。それらの分布は太陽近傍の星と、太陽から遠く離れた球状星団の星の分布に非常によく似ていました。21世紀初頭までは銀河系はアンドロメダ銀河のような渦巻き銀河と考えられていたのは、このあたりの観測結果が銀河系とアンドロメダ銀河とで良く一致したためではないかと想像しますが、銀河系とアンドロメダ銀河は似ていると言い出した人が誰なのかよくわからないので情報が欲しいところです。
20世紀になると電波天文学が急速に進展します。ヤン・オールト(1900 - 1992)は銀河系の構造に注目した久しぶりの天文学者です。この間、ちょうどアルベルト・アインシュタイン(1879 - 1955)の活躍の時代に当たり、宇宙を相対論的に見る研究や、宇宙は永遠不変か変化しているかが議論の中心となり、銀河の構造の研究については情報がありません。
1944年、中性水素から放出される波長21.1センチメートルの電波が星間ガス中に観測される可能性が指摘され、オールトも追試を行ってそれを確認しました。この電波は発生源から地球に届くまでの間に星間物質に吸収されることがないため、可視光線では観測不可能だった銀河全体の観測が可能になると期待されました。複数の研究者によって銀河構造を探る観測が成されましたが、その中でオールトが1958年に発表した図が次です。

この図で太陽系の位置は、中心から少し上の、電波が一点に集まっているように見える場所で、図の中央が銀河系の中心です。これによって銀河系がアンドロメダ銀河のような渦巻き状になっていることが実測データで明らかとなりました。
1980年代になると銀河系は棒渦巻銀河ではないかという議論が出てくるとWikipediaにかかれていますが、この記述は根拠ははっきりしません。少なくとも2000年代になってからのスピッツァー宇宙望遠鏡による観測まで明確に根拠を持って銀河系が棒渦巻銀河と述べた天文学者はいないのではないかと推察します。
またヴォイニッチの科学書2006年2月11日号ではスローン・デジタル・サーベイのデータを根拠として「アンドロメダ銀河から天の川銀河を見ると、十分に成長して安定した形の渦巻き銀河、あるいは、中心部にわずかな棒状構造をもつ棒渦巻き銀河であると思われています」と述べられています。この配信では想像として銀河系はNGC613(次図)のようではないかと補足されていますので、ちょうど銀河系に対する見方が渦巻き銀河から棒渦巻銀河に変わる分水嶺がこの頃だったと思われます。

より明確に棒渦巻銀河が意識されるのは、ヴォイニッチの科学書においては2008年9月20日配信分で、以下に引用します。
天の川銀河はかつて、レモンのような形の星の集団だと考えられていました。その後、地球から恒星までの距離を測定する方法の発見に伴い、天の川銀河は整った形をした渦巻き銀河であると認識されるようになりました。ところが、より正確な銀河の3次元地図が作成されるようになると、天の川銀河はこれまで想像していた整った渦巻き銀河ではなく、中心付近に棒のような形に集まった星の集団が存在し、4本の腕を持った棒渦巻き銀河であることがわかりました。その後、天の川銀河の周辺には多数の伴銀河のような星の集団があることや、腕は4本ではなく2本であるらしいこと、天の川銀河を取り巻く星のリボンが存在することなど、それまで予想もしなかった天の川銀河の構造が次々に明らかとなりました。
一方、現在、世界各国の天文学者が協力して、宇宙の地図を作ることを目的とした宇宙全体を網羅する大規模な観測プロジェクトが行われており、これをスローン・デジタル・スカイサーベイ(SDSS)と呼びます。
このSDSSに含まれるプロジェクトの一環として、天の川銀河にある2500万個の星について、星が宇宙空間を移動する速度の計測が行い、速度ごとに星を分類した結果、このたび、天の川銀河の外側を取り巻く星の流れ11本が見つかりました。星の流れはすでに2007年6月に天の川銀河を取り巻く3つのリングとして発表されていましたが、今回さらに11本が見つかったことになり、今までに発見されたものを含めた大小14本の星の流れは、互いに交差するなどして入り乱れ、複雑な構造を見せています。
リングを形成する星の由来についても検討が行われていますが、14本のうちの1本は、天の川銀河の射手座方向にある伴銀河が天の川銀河の重力によって引き伸ばされたものであるらしいことがわかっていますが、それ以外の流れの具体的な起源は明らかになっていません。

その後さらに情報が追加され、現在では4本の腕を持つ棒渦巻銀河とされ、NASAによる想像図も若干の修正が加えられています(次図)。

2つの銀河団を結ぶ電波の網
今回観測されたのは、地球から10億光年の彼方でゆっくり衝突しようとしているエイベル0399とエイベル0401という2つの銀河団を結ぶ電波の尾根と呼ばれるものです。その実態は2つの銀河団の間にある長さ900万光年以上のプラズマの流れ、つまり電波放射です。銀河の大規模構造は網目状をしていて、銀河団は縦横の網の結び目に位置しています。
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渇いたら飲む、はパフォーマンス低下
音楽が戦争を終わらせる脳内メカニズム
米国ユタ大学などの研究チームは、アルツハイマー病患者に自分で選んだ音楽を聴いてもらい、機能的MRI(fMRI)を用いた脳画像検査を実施した結果、脳全体で情報ネットワークが活発に情報交換を始めることを明らかにしました。
また、戦争に向かう社会では脳の活動が好戦的な部分に偏ってしまい、脳全体を使って、多数の情報を多角的かつ冷静に判断できない状態になっていると考えることができなくなっています。これを今回のユタ大学の研究と結びつけると、歌姫が戦場で歌を歌うことによって、脳全体が均一に活動を開始し、冷静な人間的判断が呼び起こされることがfMRIで間接的に確認されたことになるといえます。
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阿佐ヶ谷ダイナーヴォイニッチ「ご注文は人工衛星ですか???☆NEXT」ご報告
2017年1月28日、阿佐ヶ谷LoftA で開催した「阿佐ヶ谷ダイナーヴォイニッチ ご注文は人工衛星ですか???☆NEXT」無事終了いたしました。たくさんの方のご来場ありがとうございました。
サブカルチャーのメッカ、阿佐ヶ谷のトークライブハウスで開催する、お酒やジュースやご飯といっしょに科学の話題を楽しもう、という趣旨のこのイベント、数えて・・・ないので、もう何回目かは忘れましたが、1年に数回開催していて、今回は2017年の第1回目でした。
今回のテーマは「人工衛星」ですが、その前に・・・
「今回は立て看が地味ですね・・・」
「ですね・・・」
今回のイベントはNHK BSプレミアムで放送中の「コズミックフロント☆NEXT」の取材が入りました。3月の「私の宇宙絶景」で放送されるそうです。コレを書いている時点では具体的な放送日は三月中とだけしか決まってません。決り次第お知らせしますね。
↓イベントの前にJR阿佐ヶ谷駅周辺で出勤(?)風景を撮るということで、現場に移動するNHKご一行様。最初の頃はメイドモードで阿佐ヶ谷パールセンターを歩くのを恥ずかしがっていたスタッフメイドさんも最近は貫禄が出てきました・・・。
こんな感じで街角取材(風)の絵を撮りまして・・・
阿佐ヶ谷駅の北側なのですけど、ここけっこ人通りが多くて、特に自転車がひっきりなしに来るわけです。後ろ姿はOKですが、顔が写ると許諾の問題があるので、何度もやり直しながら人が途切れる瞬間を狙っての撮影でした。
で、もって阿佐ヶ谷LoftA の中でもインタビューを受けました。
「手作りイベント館を出すために」と準備風景も撮影して頂いたのですが・・・正直言って商業イベントなのであんまし手作り感がなくて申し訳ない・・・いつも通り LoftA のスタッフとスタッフメイドさんで手作り感なく、淡々と準備が進んでいくのでした・・・
今回は4回目の人工衛星鉄板ネタ回なので、「勝ったなガハハ!」感満載の壁紙・・・
2017年1回目のイベントに人工衛星を持ってきたのは、人工衛星が今年還暦を迎えるためです。人類が最初に人工衛星を打ち上げたのが1957年、皆さんよくご存じのスプートニク1号でした。
イベントはいつも通りのこんな感じで楽しく過ごさせて頂きました。イベント中に頂いたのはコロナが三本とロングアイランドアイスティー一杯でした。どうも、後半はコロナが売り切れになってしまったようで演者が三本も飲んでしまって失礼しました。
次回は4月15日(土曜日)、久しぶりに夜の開催です。19時開催の予定なので久しぶりのおとなの時間を楽しみましょう。
ヴォイニッチ写本の複写本が買えるチャンス
ヴォイニッチ写本はネットで画像としてダウンロードできますけど、やはり本の形になっている物を本箱に並べておきたいですね。
エダマメの科学と化学と俳句

ビジネスジャーナルで連載中の「化学に恋するアピシウス」、お知らせが遅れてしまいましたけど8月公開はエダマメでした。
http://biz-journal.jp/2016/08/post_16202.html
この連載、いつも料理の写真は自分でいろんなお店に食べに行って撮影させてもらっているのですが、今回はヴランヴァニアです。このコーナーではブルーチーズに続き、2回目の登場です。ここの生ビールはレーベンブロイなのですけど、泡が細かくて喉を心地よく刺激してくれるので、夏の暑い日、会社帰りの一杯は最高なのです。
#会社帰りの時間帯は満席で入れないことが多いので要注意ですけど
五重塔の屋根の大きさ
日本各地のお寺に五重塔がありますが、そのプロポーションは2つのタイプに分かれます。
五重塔の屋根は上層階ほど小さくなっています。この小さくなる割合を逓減(ていげん)率と呼びますが、飛鳥時代の頃に朝鮮半島経由で伝えられた建築工法による五重塔の第一層と第五層を比較した逓減率は50%くらいです。つまり、一番上の屋根の一辺の長さは、一番下の屋根の半分しか無く、四角錐に近い形状をしています。その代表が法隆寺の五重塔です。
ですが、このスタイルは日本人にはあまり評判が良くなかったようで、五重塔のプロポーションは次第に日本人好みに変化し、末期には70%前後に落ち着きました。四角錐のようなどっしりした姿よりも、シュッとした細身が日本人好みだったということのようです。70%の代表は京都の東寺ですが、私が学生時代を過ごした山口市の瑠璃光寺も68%の逓減率で今風のスタイリッシュな姿でたたずんでいます。
下の写真は私が学生の頃に撮影した瑠璃光寺五重塔のライトアップです。上の層に行くほどわずかに屋根が小さくなっているのがわかると思います。
(参考資料:日経回廊7)
tag : 五重塔
かっこいい自走式粉砕機、5900万円

上の写真は先日、コマツがモデルチェンジ発売した自走式粉砕機「ガラパゴス」です。
総重量35トン、エンジン出力は200馬力で特定特殊自動車排出ガス2014年基準にも適合し、コンクリートやプラスチックであれば1メートル近いがれきを破砕することができます。最高速度は不明です。
価格は5900万円とのことですので、先日の東京オートサロン2016に出ていた、黄金のGT-R(KUHLJAPAN PROJECT R35GT-R ENGRAVE GOLDMETAL)と同じ値段ですね。
tag : 自走式粉砕機
セーラー服と機関銃と理転とセーラー服
毎月一本原稿を書かせて頂いている「化学に恋するアピシウス」。今日、4月分の原稿を入れたのですが、その時に私が「理転」だということが話題になりました。
簡単に説明しておくと、高校三年まで「歴史は好きだし、社会科の先生にでもなるかぁ」とかテキトーなことを考えながら、具体的な大学受験目標も決められずに過ごしていたある日、山口大学農学部に俳人なのに微生物学者という教授がいることを知りました。それが恩師飴山實先生だったのですが、「へぇ、俳人かぁ、おもしろい人がいるもんだな」と、研究内容はともかくとして、俳人であり科学者である人ってどんな人? という好奇心だけで飴山先生の研究室に入るべく、それほど深くも考えずに高校三年で理転しました。
三年で理転したって、理系クラスに変えてくれるはずも無く、完璧文系クラスでやたらと文系科目に強いクラスメイトに授業ではほぼ置いてきぼり。得意なはずだった歴史も世界史の先生に授業のたびに出来が悪くてイビリ倒されるレベルに成績は急降下・・・涙。文系クラスでは授業の無い化学Ⅱとかも自分の受験科目にはあるので帰宅してから独学でやってました。進研ナンタラとかの模試を受けても文系クラスでの受験なので、理系科目は受験させてもらえず、にもかかわらず志望校に理系学部を書くもんだから「科目不足で判定不能」とか結果が出てきて、先生にもほぼ相手にされない割と踏んだり蹴ったりな最終学年を過ごしました。
ま~それでも、希望通りの進学はできて、大学三年次の研究室分けでも幸いにして飴山先生の研究室は厳しいので有名で希望者が定員に満たずに楽勝で研究室も決定。その後卒論研究、修論研究などいろいろあって(ここのいろいろも七転八倒でタイヘンだったのですが、それはまた何かの機会に・・・)今に至るわけです。
イマドキの高校生がどうやって志望大学を決めるのかははっきり言って知らないのですけど、あんまし深く考える必要はないんじゃないかな、ってのが一つ。たしかに、理系とか文系とかのくくりが存在することは否定しがたい事実で、ある段階でその枠に収まらなければならないわけですけど、一度決めたら死ぬまでその方向で・・・ってものでもないし、何かのタイミングで「あ、これいいな」とか「それ、おもしろそう」って思ったときに自分の進路なんて自由に変えればいいわけだし。
よく「文系からの理転だから、おびおさんは理系に似合わず文章がわかりやすいんですね」とか言われますけど、それも全然違ってて、単に赤川次郎さんの小説を数百冊読んだからだと思ってます。これまた、特に小説が好きとかそういうのではなくて、中学時代はほとんど本を読まなかったのです。で、中学二年のとき、大風邪を引いて学校を休んで、誰もいない家の中で退屈をしていたのですが、ふと目にとまったのが「セーラー服と機関銃」・・・。別にセーラー服に興味があったわけでは無いのですけど、何となく手にとって読んでみるとこれがまたおもしろい! で、近所の本屋さんに手当たり次第に赤川次郎さんの本を配達してもらって、ひたすら赤川次郎ばかり読み続ける中学時代を過ごしてなんとなく文章がこんな感じに・・・。
キホン、アホなので先のこととか考えてないのですよね。その瞬間、その瞬間、今何をするのが自分にとって一番楽しいことか、ってことしか考えてなかったりしますので。結論としては、私には受験生の道しるべになるような文章は書けません・・・ってことで、みなさん自分でがんばってください。
それにしても、中学二年のあの日、「セーラー服と機関銃」を見て、小説本を手に取らずに、セーラー服を手に取っていたら、今頃どうなっていたでしょうね???
tag : 化学に恋するアピシウス飴山實山口大学